|
|
ゆかさんとは、たまたま良く行く喫茶店のカウンターで出会ったのがご縁で、今までおつきあいさせてもらっています。彼女はなにせカフェ番長なので、僕の行きつけも縄張りに入っていたわけです。お会いする時は、世間話を良くするんですが、彼女は僕の話を良く面白がって聴いてくれまして、僕も彼女のお話を面白く聞いていました。
お会いする間隔は一年に十回くらいから、数年に一回と言う時もあり、かなりばらつきがありますが、結構つきあいは長くなってきました。お互い、まさに『物語の交換』をしているうちに、今度ワークショップにゲストで出てみない?と言う話になり、、、、自分でも全く経験が無い、こうしたワークショップに参加する事になったと言う、、自分にとってもちょっとしたプチ冒険なんです。果たして、どんな風になるのか、自分でも楽しみです、いや、本当は緊張しているんですが、楽しむ事にしようと思っています。今日は、ひとつ、どうぞよろしく。 |
|
人が現実を認識したり、世界を捉えたり、人とお付き合いする時にどんな風にその人の事を捉えるか、、そのやり方なんですが、すごく、基本的な所に、『物語的理解』と言うものがあります。ものごとを記憶するやり方も『物語的記憶』が主になります。
世界はこう言うものだ、そして自分はこう言うものだ、、あの人はこう言う人だ、そして、だから自分はこう生きてゆく、、、漠然とはしていても、普段意識はしていなくても、こんな風に私たちは『物語形式』で感じたり、考えたり、記憶にとどめたりしています。好むと好まざるとに関わらずです。まずその事を皆さんに語りたいと思います。
と言う訳で、今日、僕がここで話す事も、一つの『物語』として楽しんでいただければ嬉しいです。
ところで、『物語』、と言うものの構造って不思議だと思いませんか?事実をただ箇条書きにしても、『物語』にはなりません。時間の経過順に並べてもそれは『年表』にしかなりません。
それから、『物語』は、合理性が無くても成り立ちます。必ずしも必要無いのです。
つまり、原因があって、こうした結果になった、、と言う形式はあっても無くてもいいのです。科学には原因→結果と言う、『合理性』が必要ですよね。『物語』に、原因と結果がある様に見える事もあります。これこれ、こう言う原因があってこうなったと言う筋立てです。これは実を言うと、『物語』の中の一つの語り方、語り口であるに過ぎません。
現代人は、原因→結果と言う語り口の『物語』は、すーっと入って来やすいのです。でも、古代民話、神話には合理性やこうした因果律なんか無い『物語』はたくさんあります。この間、テレビで『舌切り雀』や『白雪姫』をどれだけ思い出せるかと言うクイズをやっていました。あの、、ユースケサンタマリアと草薙くんが出ているテレビです。ずいぶん忘れている事が多くて、びっくりしたんですが、舌切り雀なんて不可解な事だらけ。白雪姫も、とってもおかしい。でも面白い。
|